小説「幽霊と住んでいる」

 大野です、幽霊と住んでいます、というのが、隣に引っ越してきた大野さんの、最初の挨拶だった。手土産の紙袋を受け取りながら、あたしは、はあ、幽霊、と気の抜けた返事をすることしかできなかった。何を言っているんだこの人は、と思いながら、紙袋の中身を覗く。シュガーバターの木だった。東京ばな奈よりもシュガーバターの木のほうが好きだから、これは嬉しい。で、幽霊。
「霊感が強いタイプなんですか」
 散々考えた末にあたしが絞り出したのは、そんな質問だった。大野さんは首を横に振った。
「いいえ、幽霊は、実際にはいないんです」
「そりゃ、幽霊だからそうなんでしょうけど」
「おれにも見えていないんです、幽霊というのは。だから、幽霊と住んでいます、というのは本当は適切ではないんですよね。幽霊と一緒に住んでいると思い込んでいる、頭のおかしいやつが引っ越してきたんだと思っていただくのが、いちばん近いかも」
 ここに、と大野さんはなにもない空間をぐるりと指でなぞった。ここに、神辺という人間がいるんですけど。
「誰ですか、それ」
「幽霊です、おれの恋人でもあります。三年前に亡くなりましたが」
 だんだん話が見えてきた。つまりこの人は、自分の死んだ恋人の幽霊が見えている、という、『フリをしている』のだ。実際には幽霊はいないし、見えていない。本人もそのことは理解している。けれど、見えているように振る舞う。なるほど、変な人だ。けれど、悪い人ではなさそうだった。お土産のセンスもいいし。
 よろしくお願いします、と大野さんが深々と頭を下げる。なにをよろしくすればいいのかはわからなかったけれど、あたしもとりあえず、よろしくお願いします、と頭を下げた。
「えーっと、それで、あたしはなにをすればいいんですかね」
 あたしがそう言うと、大野さんはちょっとびっくりした顔をしてから少し考えて、とくになにも、と困ったように笑って言った。
「いいんですか、なんもしなくて」
「はい。強いて言うなら、おれがそこらへんで一人で喋っていても通報しないでいただけると助かります。こうして事情を説明しにきたのも、そのためなので」
 もしかしたら、前の家は通報されて追い出されたのかもしれないな、と思う。ちょっと苦い思い出がありそうな物言いだった。まあ無理もない。さすがに追い出しとまでは思わないけれど、あたしだって、ひとりでぶつぶつと喋っている人が同じアパートに住んでいるのは、ちょっと怖い。幽霊がいる、と説明されたほうがぜんぜんマシだ。
「それ以外は、とくに。変なやつがいるなと思って無視していただければ」
 変わってますね、と大野さんが言う。
「変わってますか」
「少なくとも、なにをすればいいか聞かれたのは初めてですね。おれがどうするべきかを教えてくれる人なら、いたんですけど」
「どうするべきか?」
「病院に行けとか、現実を見ろとか」
 そう言う人たちの気持ちも、理解できなくはなかった。たぶん、今の大野さんの状況はあまりよろしくはない。健全ではないし、歪んでいる。それでも、あたしはなんだか、大野さんを咎める気持ちにはなれなかった。それは、手土産があたし好みだったからかもしれないし、少し猫背気味な大野さんの背中が、あんまりにも寂しそうだったからかもしれない。
「わざわざ教えてくれたから、たぶん、良い人なのかなって。なんか、お人好しっぽいし、大野さん」
 口にしてから、お人好しってあんまり褒めてないかもな、と少し後悔する。でも、大野さんの体から滲み出ているものを表現するほかの言葉も思いつかなかった。
 神辺にもよく言われました、と大野さんは懐かしそうに目を細めて言った。


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