小説「虎」

 さびれた田舎町に動物園なんていう立派なものがあるはずもなく、だから俺の中で虎といえばずっとトラくんのことだった。トラくんは本名をタイガーといい、漢字では虎牙と書く。小学生のころはかっこいいと思っていたけれど、大人になってから改めて考えてみるととんでもない名前だ。トラくんはそれを子どものときからよくわかっていたらしく、周りにはトラと呼ぶことを徹底させていた。
 トラくんは俺のふたつ上で、だけどそれよりもずっと大人に見えた。体が大きかったわけじゃない。むしろ小柄で、手足なんかは骨のかたちがよくわかるくらいに細かった。けれどトラくんは、その見た目に反しておそろしく喧嘩が強かった。虎というのはきっとこんな生き物なんだろうと、淡々と人を殴るトラくんの横顔を見ながら、俺はいつも考えていた。
 そのトラくんが、いま、テレビに映っている。東京で起きた詐欺の受け子として逮捕された、自称無職の新田虎牙として。にったたいがー、とニュースキャスターは淡々とその名前を読み上げた。一発で読めるわけがないから、どこかしらに読み仮名が書いてあるんだろうか、と場違いなことを思う。被せられた布の隙間から、トラくんの顔が一瞬だけ見えた。ぱさついた金髪。カメラのほうに向けられた目は、薄暗く澱んでいた。
「新田ンとこのガキか、いまの」
 親父が驚いた顔をして言う。どうだろう、と口では返すけれど、心の中では、当たり前だろ、と思っていた。あんな変な名前、この世にふたつとない。あらあら、と母親が顔をしかめる。
「グレちゃったんかねぇ、ちょっとあれな家やったもんね」
 トラくんの家がやばいことは、町の中ではそれなりに有名な話だった。トラくんの父親が酒瓶を持ってトラくんを追いかけているのを見た人もいるし、トラくんの母親がトラくんの父親ではない男と路上でキスをしているのを見た人もいる。ただ、トラくんの口から家の話を聞いたことは一度もなかった。だから俺も、周りのやつらも、みんなトラくんにはなにも聞かなかった。俺たちは子どもだったけれど、子どもが子どもなりに守りたいプライドがあることはよく知っていた。
 あんたはグレんといてよ、と母親が苦い顔をして言った。グレへんって、と返事をしつつ、頭の中はトラくんのことしか考えられなくなっていた。
 トラくんは二年前、いきなりこの町からいなくなった。トラくんの父親はそれからしばらくしてから急性アルコール中毒で死んで、トラくんの母親はいつのまにかいなくなっていた。トラくんがどこへ行ったのかを、俺は知らない。たぶん、今日まで誰も知らなかった。
 母親から弁当を受け取って、通勤用の車に乗り込む。いつも通り、職場へ向かうつもりだった。食品倉庫で働き始めて一年と少しが経つ。やりがいなんかはとくになかった。毎日決まった動きをして、毎月同じ日に給料が振り込まれる。その繰り返し。俺がそれを繰り返しているあいだ、トラくんはなにをしていたんだろうか。
 気づけば、車は職場とはまったく別の方向へと走り出していた。しばらく車を走らせてから、俺は自分が東京へと向かっていることに気づいた。東京へ向かう車を運転しているのは俺自身であるはずなのに、おかしな話だ。
 東京。トラくんのいた場所。もちろん、俺が車を走らせて東京に向かったところで、そこにトラくんはいない。正確には、東京のどこかの拘置所だか留置所だかにはいるんだろうが、それはもういないのと変わらないことだった。そもそも、たとえトラくんが捕まってなかったとして、東京なんていう人の多い街でたったひとりの人間と出会うなんてことが不可能なのは俺でもわかった。
 少し考えてから、スマホで動物園の場所を調べてナビを表示させる。毎日決まった場所を往復するだけなのでカーナビなんていらないと思っていたが、今は少しだけカーナビが恋しかった。動物園までは二時間と表示されていた。意外とかからないもんだな、と思う。
 なぜだか、無性に虎が見たかった。
 二時間と十五分ほどで、車は動物園に到着した。途中何度か携帯が震えたけれど、すべて無視した。
 平日だからか、田舎だからか、人が少ない。入り口の前に置かれた色褪せたパネルに虎が描かれていて、少し安心する。ここに描いてあるということは、少なくとも虎がいないということはないはずだ。
 入場料を支払って、動物園へ入る。受付でもらったパンフレットに従って進むと、案外あっさりと虎は見つかった。分厚いガラスの向こうに、一頭。思ったよりも小さかったが、説明を読む限りは大人の個体らしい。
 虎は俺に気づくと、のっそりと体を起こして近づいてきた。虎の目は澱んで、疲れ切っていた。トラくんのほうがずっとかっこよかったな、と思う。トラくんのほうが、もっと苛烈で眩しかった。今のトラくんがそうではないように、この虎だって、昔はそうだったのかもしれないけれど。
 しばらく俺を見つめてから、虎はまたのっそりと、元いた場所へと戻っていった。


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