失うものなんてなにもないんだと気づいてしまったら、もうとまらなかった。
手首を掴んで黒板に体を押し付けると、辻ちゃんはあきらかに強張った顔をした。飯田、と辻ちゃんが引きつった声で言う。飯田、やめなって、飯田。乱暴に腕を振り払われて、なんだかむなしくなる。現役のときだったら、こんな簡単に振り払われることはなかったんだろう。もう一度手首を掴もうとすると、今度は頬を引っ叩かれた。ぱん、と風船が破裂するみたいな音がした。
「あんまふざけたことすんな、ほら、そこ座れ」
辻ちゃんが、教室の真ん中に置かれた机を軽く顎で示す。机の上にはおれの通知表と、いくつかの大学のパンフレットが置いてある。知らない男と知らない女が、にこにこ笑って並んで写っている表紙に、なんだか無性にいらついた。おれにこんなことをされてもなお、個人面談なんて馬鹿げたことをしようとしている辻ちゃんにも。
体の中で燻っている熱をぜんぶ放出するみたいに、机と椅子を蹴飛ばす。それらは思ったよりも飛んで、教室の端にあるロッカーにぶつかって派手に音を立てた。それから、馬鹿、と舌打ちをした辻ちゃんの手首をもう一度掴む。今度は黒板ではなく、床に体を押し倒す。右腕を庇うのをやめて力を入れたら、今度は案外簡単に制することができた。はは、と思わず、笑いが漏れた。辻ちゃんの言う通り、おれが馬鹿であることはどうやら間違いないらしい。今さら右腕を庇ったところで、もうどうしようもないのに。
「っ、おい飯田、やめろマジで」
辻ちゃんが声を荒げる。本気で嫌がっている声だった。なんだか悲しくなってくる。こんな、レイプまがいのことをしているおれが悪いのは、間違いないんだけど。
おれが怪我で部活を追いやられて奨学金も打ち切られてそれが原因で親も険悪になって離婚して母親がパートを始めて、なんだかそんな感じで、おれのまわりがぜんぶめちゃくちゃになり始めてから初めての春に、おれの担任になったのが辻ちゃんだった。二十八歳。本当なら辻先生と呼ばなければいけないんだろうし、本人も辻先生と呼べと口うるさく言っているけれど、おれは頑なに辻ちゃんと呼び続けた。クソみたいな世の中への、小さな反骨精神だった。
辻ちゃんは、顔はいつもしかめ面だったけれど、嫌なやつではなかった。いや、課題出せとか遅刻すんなとかサボんなとかめっちゃ言ってくるから嫌なやつではあるけれど、でも、辻ちゃんは絶対に、おれを可哀想な目では見なかった。だからおれは、辻ちゃんがわりと好きだったし、最近は少し、学校が好きだった。
遠くで、五時の鐘が鳴っていた。三者面談だったものは、五時からの予定だった。だけど教室には、辻ちゃんをレイプしようとしているおれと、おれに必死で抵抗している辻ちゃんのふたりしかいない。三者面談の紙、渡したはずなのにな。
「やめろ、離せ」
辻ちゃんが、おれの体の下で、じたばたと暴れている。そんなに、とおれは気づけば、口にしていた。そんなにおれのこと、嫌いかよ。
馬鹿なことを言っているのは、自分でもわかっていた。この世のどこに、生徒からのレイプを甘んじて受け入れる教師がいるんだって話だ。だけどほんの少しだけ、おれは期待もしていた。辻ちゃんなら、おれのことをわかってくれるんじゃないかと思っていた。わかってほしかった。
めちゃくちゃになりたかった。
違う、と辻ちゃんが怒ったような声で言う。課題出せとか遅刻すんなとかサボんなとか言うときと同じ、端の掠れた怒鳴り声だった。
「ちがくない」
「違うって」
勢いよく辻ちゃんがつま先を上に蹴り上げて、瞬間、股間に激痛が走った。あまりの痛みに手首を掴んでいた腕を離して、股間を押さえてしまう。痛、いったい、なに、と呻くおれを、おれの腕から抜け出した辻ちゃんは呆れたように見下ろしている。それから辻ちゃんは、ため息をつきながら言った。おまえが大事だから抵抗してんだよ、馬鹿ガキ。
「わかったら個人面談始めんぞ。どうすんだよおまえ、大学は。ほら椅子座れ、いつまでキンタマ押さえてんだよ」
辻ちゃんが机と椅子を持ってきて、元の場所へ置き直す。床に落ちていたパンフレットや通知表も、元通りの場所に置かれていく。大事。辻ちゃんの声がまだ、頭の中で反芻している。大事。おれ、が。
体を起こして、のろのろと椅子に座る。顔を上げると、目の前に座っている辻ちゃんと目が合った。泣くほどキンタマ痛いのかよ、と辻ちゃんが鼻で笑う。それでおれはようやく、自分が泣いていることに気づいた。
